1477年
応仁の乱 終了
1493年
明応の政変
1497年
蓮如が石山本願寺を創建する
1543年
ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える
1549年
フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教を始める
1573年
室町幕府が滅びる 浅井家、朝倉家滅亡
近江八幡市
京極氏と
六角氏が
応仁の乱で対決
戦国時代の始まりともされる「応仁の乱」は、近江を二分することになりました。北近江の守護だった京極持清(きょうごくもちきよ)は東軍に、南近江の守護だった六角高頼(ろっかくたかより)は西軍に属し、観音寺城(近江八幡市)などで対決。乱は京極氏が属す東軍の勝利に終わりましたが、京極氏の当主・持清の死去を機に、六角氏が勢力を盛り返すことになります。
大津市
力をつけた
百姓による
「惣」が発達
物資が行き交う交通の要衝であった近江の各地では百姓が力をつけ、「惣」と呼ばれる共同組織が発達。惣は時に自らの権利や支配地をめぐって、守護大名などと対立しました。1468年に堅田(かたた/大津市)で起きた「堅田大責(おおぜめ)」では、将軍・足利義政(よしまさ)が堅田を攻撃。家を焼かれた堅田の人々は琵琶湖の沖島(近江八幡市)へ避難しました。
栗東市
鈎の陣で
将軍が近江に滞在。
室町幕府の中枢に
南近江の六角高頼は、幕府奉公衆が所有していた荘園を奪うなどして勢力を拡大。将軍・足利義尚(よしひさ)は六角氏討伐に動き、幕府軍は栗太郡鈎(栗東市)に陣を構えました(鈎の陣)。この出陣には、将軍直轄の奉公衆や幕府官僚の奉公人も伴っており、義尚が陣中で病没するまでの約1年半、実質的な幕府の中枢が近江にあったことになります。
近江八幡市・守山市
京を追われた
将軍が
次々と
近江に逃亡
栗太郡鈎(栗東市)で病没した9代将軍・足利義尚の後も、室町将軍はたびたび近江へ滞在しています。11代・義澄(よしずみ)、12代・義晴(よしはる)、13代・義輝(よしてる)、15代・義昭(よしあき)は、後継者争いや内乱などの難を逃れて、京から逃亡。義晴が将軍御所(仮の幕府)を置いた桑実寺(くわのみでら/近江八幡市)、義昭が滞在した矢島(やじま/守山市)など、近江には将軍ゆかりの地が多くあります。
長浜市
浅井氏が台頭し、
湖北を支配
信長が桶狭間(おけはざま)の戦いで勝利した同じ年、近江では浅井長政(ながまさ)が16歳で家督を継ぎました。浅井氏は京極氏の家臣から独立したのが成り立ちで、初代・亮政(すけまさ)は、琵琶湖と湖北3郡を一望できる小谷山(おだにやま/長浜市)に小谷城を築城しました。3代・長政(ながまさ)は後に、織田信長の妹・お市と政略結婚。長政とお市には、悲しい運命が待ち受けることになります。
近江八幡市
信長が近江で
将軍を迎え、
いざ上洛
桶狭間の戦いの後、美濃国(みののくに/岐阜県)へと進攻した織田信長はさらに軍を進め、六角氏を攻め落として南近江を制圧。後継者争いで身の危険を感じ、越前へと逃れていた足利義昭を桑実寺(近江八幡市)で迎え、坂本(大津市)を経由して京都へ向かいます。上洛を果たした信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍にたてて、政治の実権を握りました。
長浜市
姉川の戦い。
お市の方の悲劇
織田氏と同盟関係にあった浅井氏は、越前(福井県)の朝倉氏とも、親密な関係を築いていました。信長と朝倉氏が対立したことで板挟みにあった浅井長政は、朝倉氏に加勢。湖北を東西に横切る姉川を挟んで、浅井・朝倉軍と、織田・徳川軍の合戦(姉川の戦い)へと発展しました。戦いは織田・徳川軍が勝利。1573年に浅井氏は滅亡し、長政の妻・お市は、兄である信長によって、夫を失うことになったのです。
大津市
武家と
山門の対立が激化
天下統一をめざした信長は僧侶とも激しく争い、志賀の陣で浅井・朝倉氏に協力した比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ/大津市)に攻め入りました。また、同様に大きな勢力だった本願寺の一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗)門徒とも戦いを繰り返し、1570年に始まった石山合戦では、近江の一向宗門徒とも戦っています。
大津市
明智光秀、
琵琶湖岸に
坂本城を築城
信長が比叡山延暦寺に攻め入った直後のこと、信長の家臣で、その手腕を高く評価されていた明智光秀(あけちみつひで)は滋賀郡(大津市北部)の支配を命ぜられました。光秀は坂本(大津市)の琵琶湖岸に坂本城を築城。城内に直接船を引き入れることができる構造の城だったという記録が残されています。
1467年
応仁の乱 起こる
近江八幡市
京極氏と
六角氏が
応仁の乱で対決
戦国時代の始まりともされる「応仁の乱」は、近江を二分することになりました。北近江の守護だった京極持清(きょうごくもちきよ)は東軍に、南近江の守護だった六角高頼(ろっかくたかより)は西軍に属し、観音寺城(近江八幡市)などで対決。乱は京極氏が属す東軍の勝利に終わりましたが、京極氏の当主・持清の死去を機に、六角氏が勢力を盛り返すことになります。
大津市
力をつけた
百姓による
「惣」が発達
物資が行き交う交通の要衝であった近江の各地では百姓が力をつけ、「惣」と呼ばれる共同組織が発達。惣は時に自らの権利や支配地をめぐって、守護大名などと対立しました。1468年に堅田(かたた/大津市)で起きた「堅田大責(おおぜめ)」では、将軍・足利義政(よしまさ)が堅田を攻撃。家を焼かれた堅田の人々は琵琶湖の沖島(近江八幡市)へ避難しました。
1477年
応仁の乱 終了
1487年
鈎の陣で室町幕府軍が
六角氏の観音寺城を攻撃
栗東市
鈎の陣で
将軍が近江に滞在。
室町幕府の中枢に
南近江の六角高頼は、幕府奉公衆が所有していた荘園を奪うなどして勢力を拡大。将軍・足利義尚(よしひさ)は六角氏討伐に動き、幕府軍は栗太郡鈎(栗東市)に陣を構えました(鈎の陣)。この出陣には、将軍直轄の奉公衆や幕府官僚の奉公人も伴っており、義尚が陣中で病没するまでの約1年半、実質的な幕府の中枢が近江にあったことになります。
1493年
明応の政変
近江八幡市・守山市
京を追われた
将軍が
次々と
近江に逃亡
栗太郡鈎(栗東市)で病没した9代将軍・足利義尚の後も、室町将軍はたびたび近江へ滞在しています。11代・義澄(よしずみ)、12代・義晴(よしはる)、13代・義輝(よしてる)、15代・義昭(よしあき)は、後継者争いや内乱などの難を逃れて、京から逃亡。義晴が将軍御所(仮の幕府)を置いた桑実寺(くわのみでら/近江八幡市)、義昭が滞在した矢島(やじま/守山市)など、近江には将軍ゆかりの地が多くあります。
1543年
ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える
1549年
フランシスコ・ザビエルが
キリスト教の布教を始める
1560年
桶狭間の戦いで
織田信長が今川義元を破る
長浜市
浅井氏が台頭し、
湖北を支配
信長が桶狭間(おけはざま)の戦いで勝利した同じ年、近江では浅井長政(ながまさ)が16歳で家督を継ぎました。浅井氏は京極氏の家臣から独立したのが成り立ちで、初代・亮政(すけまさ)は、琵琶湖と湖北3郡を一望できる小谷山(おだにやま/長浜市)に小谷城を築城しました。3代・長政(ながまさ)は後に、織田信長の妹・お市と政略結婚。長政とお市には、悲しい運命が待ち受けることになります。
1568年
織田信長が足利義昭を
将軍にたてて京にのぼる
近江八幡市
信長が近江で
将軍を迎え、
いざ上洛
桶狭間の戦いの後、美濃国(みののくに/岐阜県)へと進攻した織田信長はさらに軍を進め、六角氏を攻め落として南近江を制圧。後継者争いで身の危険を感じ、越前へと逃れていた足利義昭を桑実寺(近江八幡市)で迎え、坂本(大津市)を経由して京都へ向かいます。上洛を果たした信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍にたてて、政治の実権を握りました。
1570年
姉川の戦い大坂で石山合戦
長浜市
姉川の戦い。
お市の方の悲劇
織田氏と同盟関係にあった浅井氏は、越前(福井県)の朝倉氏とも、親密な関係を築いていました。信長と朝倉氏が対立したことで板挟みにあった浅井長政は、朝倉氏に加勢。湖北を東西に横切る姉川を挟んで、浅井・朝倉軍と、織田・徳川軍の合戦(姉川の戦い)へと発展しました。戦いは織田・徳川軍が勝利。1573年に浅井氏は滅亡し、長政の妻・お市は、兄である信長によって、夫を失うことになったのです。
1571年
織田信長が
延暦寺に攻め入る
大津市
武家と
山門の対立が激化
天下統一をめざした信長は僧侶とも激しく争い、志賀の陣で浅井・朝倉氏に協力した比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ/大津市)に攻め入りました。また、同様に大きな勢力だった本願寺の一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗)門徒とも戦いを繰り返し、1570年に始まった石山合戦では、近江の一向宗門徒とも戦っています。
大津市
明智光秀、
琵琶湖岸に
坂本城を築城
信長が比叡山延暦寺に攻め入った直後のこと、信長の家臣で、その手腕を高く評価されていた明智光秀(あけちみつひで)は滋賀郡(大津市北部)の支配を命ぜられました。光秀は坂本(大津市)の琵琶湖岸に坂本城を築城。城内に直接船を引き入れることができる構造の城だったという記録が残されています。
1573年
室町幕府が滅びる 浅井家、朝倉家滅亡